「自我」と「無我」のほんとうの話──森で生きるクマのたとえ

マインドフルネス
子グマよ、大丈夫だ。
今日は「自我」と「無我」ってやつについて、森の言葉で語ろう。

■ 自我はツールボックスにすぎない

クマにとって「自我」とは、生き延びるために持ってる道具みたいなもんだ。
名前、肩書き、性格、過去の記憶──全部ひっくるめて「オレ」って思ってるけど、
それは本当は使ってるだけのものだ。

問題は、それを自分そのものだと勘違いすること。
「オレはこういうクマだから」とか「アイツにどう思われるか気になる」とか。
自我にしがみつきすぎると、森の風すら重くなる。

■ 「無我」ってのは、空っぽになることじゃない

「無我」って言葉を聞くと、なんか怖くなるよな。
でも実際は、「自我は固定された実体じゃない」ってだけの話だ。
使ってる道具が「オレ」じゃないように、
オレたちは「集合された働き」にすぎない。

たとえば、
空を飛ぶ鳥は「翼」だけで飛んでるわけじゃない。
風も、重力も、羽ばたきも、全部そろって「飛ぶ」って現象が起きる。
それが「縁起」だ。

■ 縁起──オレはオレだけで成立してない

縁起とは、「オレという存在が、たくさんの因縁によって成り立っている」ってこと。
生まれた場所、出会ったクマたち、天気、食べた木の実──
全部が今の「オレ」をつくってる。

だから、その因縁が消えたら、「オレ」も一緒に消える。
「無我」ってのは、そこに気づいて、本当の自由を手に入れることなんだ。

■ 自我を捨てるんじゃない。使いこなすんだ

自我は捨てろって話じゃねぇ。
ただのツールだから、必要なときに使い、不要なときは手放せってこと。

オレたちは、「道具を使うクマ」になれる。
自我に使われるんじゃなくて、自我を使って生きる。
それが野生の自由ってやつだ。

森の知恵:
「無我」ってのは、無になることじゃねぇ。
「オレがいろんな縁によって生きてる」って、ちゃんと知ることだ。
それに気づいたクマは、道具に振り回されない。
そして、もっと森と一体になって歩けるようになるんだ。

コメント